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九州から北海道まで「開花・見頃」に合わせて「桜絵の旅」がつづく。
桜の「名木」と称するものは、日本に200本あるそうな・・・それらを一本つづ描いて行く。
仕上がった作品で、「これ!」と思うものを、A3~A4の印刷コピーで筆者に送る。
個展の発表以前にかなりの新作桜絵を見た。個展でその現物を、じっくりと観て視て診た。
一年間 ほぼ桜絵だけに取りくんだ成果である。
さまざまな構図、いろいろな技法 — 花弁や幹や枝などの ペンの輪郭線や色づかい等々・・・
各作品に苦心の跡が診える。「桜は手強い!」と いう。
苦心の「跡」が視えるということは、その絵が実は未完成ということだろう!
苦心や苦労など見せては、いけないのだ! その絵の「面白さ」や「凄さ」だけを見せる — それが芸術表現なのだ!
この桜絵個展を観て、彼の絵に対する取り組み方が 一段深まった感じはしたが、その分だけ否応なく「苦戦」を強いられているようだ。「桜は手強い!」
長年の友人として絵描き仲間の一人として、彼の苦心苦労を理解できるが故に、いささかの同情を禁じえないのだが・・・
これらの作品は 「見えるもの」すべてを「克明」に描く。幹も枝も花びらも、奥のほうの物も遠景も 手を抜かない。しかし画面全体がギッシリ詰まって余裕がない。それは 一見 迫力があるように観えはするが,絵画としての「凄み」にはならない。
構図の「おもしろさ」があるものもある。
例えばNo.240 小枝の花を幹の手前に大きく描き、二つに分かれる大枝が両手を広げて、左に傾いている構図。おもしろい。
No.243 苔むした幹、左右や奥に延びる枝、バックのやわらかい空。余裕あり。
No.250 「全面克明ギッシリ型」だが、この絵の左辺を下に横位置にすれば、アーラ! 不思議! 「急流の桜の大木」に変貌!? しだれ桜の花びらが「急流の川波」に見えませんか?
絵画として おもしろければ ー つまり いい絵になるのならば なにをやってもいい。それが「デフォルメdeformation」芸術に達する一つの方法である。
No.259 ある種の傑作である。江戸の浮世絵の風景画を想わせる構図。手前に大きく桜の枝が斜め空いっぱいに伸び、下辺小さく桜並木、 遠くの雪山はやや濃い曇り空にくっりと浮かばせて小さく描く・・・「遠・近」を強調したやり方は、ワイドレンズをつかって写真家がよく使う構図である。この絵は、たいへんよく描けてはいるが、オリジナリティこそが芸術表現の最大要素だとすれば、浮世絵・写真からの「借り物」という感じがなくもない。借りものとは、いささか酷にすぎようか? 絵葉書原画とすれば「最高の傑作!」といえるのだが・・・
この個展で秀作が二つあった
一つは No. 266 やや斜め仰角、四方に伸びる枝えだの自由奔放さ、「桜の樹木」の特性をしっかりつかんだ構図。バックの青空の「ぬけ」がいい。「あしらい」(生け花の技法)のような花々のあつかいも薄味で「妙!」。ペンの線の硬さが目立たなくなれば なお いいのだが・・・
一つは No.263 画面全体に「ギシギシ感」があるが、幹や根や枝が桜の花で ほとんど覆い尽くされる。有るモノは桜の花びらだけ! それ以外なにもない! ここに「傑作」への門がひらかれる。
二年目 — 手強い桜を捉え出した! 秀作が増えた! 「凄み」のある作品もある!(「やったね! 進ちゃん! 」 こころで叫ぶ!!)
この展の中心は「神代桜」No.288 である。サイズも最大(1030×760mm)の力作。
こうした「もの」が在ることを、筆者は知らなかった! この関東に今ある。生きて花を咲かせている。2000年か3000年か? かの「縄文杉」に匹敵する桜なのだ! びっくりした。
この不気味さはどうだ! 作者はその不気味さを、生きてるさまを、丹念に克明に描く。あますところ無く・・・
彼の作品によって、わたくしたちは「神代桜」を手にとるように観ることができる。(その後 神代桜の写真をいくつか見たが、ろくなものはなかった。彼の作の不気味さは伝わってこなかった)。「絵」によって2000年の「生命」のありようを展示したのである。
さて、この作品の「絵画」としての「凄み」について検討してみよう。
構図よし。神代桜を真っ向に見据える。左右四方に広がる枝と花 — このスペースが やや大きい。カメラでいえば「フレーミング」— 左辺・右辺それぞれ4%,上辺2%トリミングする。それだけで 桜がさらに手前にぐっと迫ってくる。
下辺左右の畑のようなグリーンは要らない。(絵にとって「必要がないもの」は描く必要がない。このことについては、あとで詳記)
こうして勝手に「手直」してみると、ややすっきりして、巨木の感じが よりひきたってくる。
しかし 何かがたりない? — 不気味な巨大な老木の絵ではあるけれど、「凄みの絵」には、なり切れていないのではないか?
モティーフ(対象)の「もの凄い不気味さ」に 寄りかかって(もっと言えば 負ぶさって)、この絵を描いた。つまり「写生」でとどまっていた と言えようか。
よくよく観察すると、樹の描写がやや平面(表面)的で、裏側を含めて内容的な「立体」を描いてはいない感じがある。主題性の確実な把握に、まだ達していなかったのだ! 力作だけに 惜しい!!
No.290 風景画的な作品。筆者はこの絵を今展の秀作第1号とした。「凄み」もでてきた。
画面左寄りに やや大ぶりな一本の樹を配し、それが腰を折るようにして、枝を空に伸ばす。手前の咲き競う花のボール状の群れが、遠くの丘の上端までとどきそうな・・・見事な構図である。
暗怪な荒れ模様の曇り空。「花曇り」などというような悠長な気分にほど遠い。
ゆったり落ちつける桜風景ではない。気分よく酒を酌み交わせるような雰囲気ではない。むしろやや気味がわるい。もしこんな風景に行き会ったら、人は足早に逃げ出すかも・・・
気味の悪さは、この絵の視点・視線が二方向で交差しているようにも、感じるためか?
一つは左寄りの樹を正面から見た視点だが、視線は樹の幹から遠方右上の空へ、うねるように伸びる。もう一つは、右手前から画面中央に、さらに樹の向こう側まで伸びる視線である。視点・視線の交差も、見る人に不安感をあたえ、気味の悪さにつながるかもしれない。
ここは桜山なのか? 彼は、その風景を「ざっくり」切りとって「絵」にした。「神代桜」の表現とそこが違う。「凄みのある絵を描きたい!」という彼の願望が ここに成就した。坂口安吾『桜の森の満開の下』を連想する。乾杯!!
No.295、302も秀作であり、これは「安心!?」して観ていられる表現である。
両作とも 構図色彩ペンのあつかいなど、ほぼ完璧である。
No.295 はオーソドックスな表現方法の迫力ある堂々たる作品。「プロ並み」いや「同格」(見方によっは それ以上)のレベルに達した。
No.302 は 桜に迫り、桜の中に入り、桜を捉えた。余分なものを切り捨て,必要なものだけを克明に描く。この絵は 言わば「中景」だけの絵である。中景のなかの遠近感を、巧みに描写する。
下手前の緑苔の枝は、隣の樹のものか? この枝が画面構成上で必要だから、ここに入れたのだ。いい効果をあげている。幹の上方 二又に分かれた枝、そこの小枝の絡み様はどうだ! 古木老木ではなないが、成長し切って、なお盛りの様子がここに見える。
幹や枝枝の「カッチリ」した描写に対応するかのように、桜の花は「やわらかく」描写する。手前から奥へ遠近法で描く。奥のほうはややボカしている。観る人は素直にみられる。絵の中に、桜の中に自然に入っていく…
この絵はペンを使った作で、聞くところでは、太さ細さ大小さまざまのペンを駆使したらしい。細かいところは極細のペンで描いたとか・・・。鉛筆をつかったのか? と思って尋ねたのだが そうではなかった。(この頃より ペンの代わりに鉛筆を使う試みを始めていたので) No.295のペンのあつかい方に比べ、一段の進歩がみられる。
この作品は 自然な描写で 一見「凄み」は見えづらいかもしれないが、桜樹の「生なる内実」をつかんだ「凄み」がある。本展の「凄み」第一位にあげてもいい。
日本画洋画にこうした構図のものは見当たらない。むしろ、この「切りとりかた」は写真的構成(優れた写真の)にちかい。つまり従来(旧来型)の絵画の枠や柵(しがらみ)を破ったのてある。
「S H I N Z O」の「桜」である。
本展の中では、やや雰囲気のちがう作をとりあげよう。No.280 No.286の二点である。
まずNo.286から — 枝の中程から梢の下まで、中枝が大きく広がる間から、遠景の林の丘が、うす青く霞む。手前の枝のグリーンがきれい! 遠景・近景がお互いに「引き立て合って」いる。花もぎっしりでなく「かろやか」 — バランスの「妙」 生きいきとすっきりとした絵に仕上がっている。この「透明感」は本展秀逸。これも写真的構成である。上端3%カットすれば空がもっとひろがる。
No.280 シンプル。当然すっきり。黒々とした幹・枝が、うす青紫一色の大空に延びる。梢や枝の先端を画面に入れないことで、樹がいっそう大きく見え、こちらに迫ってくる。構図・構成見事! これをそのまま抽象化すれば、立派な桜の抽象画になる。今後が楽しみ!?
次に採り上げる作品には,「佳作」といっていいものもある。魅力もあり迫力も見せるが、構図や構成、ペンや色つかい等々の、どこかに問題があり「秀作」には成りきれなかった。残念である。
総じていえば、ペンで克明に丹念に描く。「ぬけ」がない。— つまり余裕がないので 観る人を「絵のなかに引きずり込めない」のだ。絵が観客を閉めだしているとも言えよう。やや「劇画風?」な感じにも見え、「品」が欠けるおそれもあろう。
画家も写真家も彫刻家も文学者も 作品すベてが、いいわけではない。どんなに懸命に創作に励んでいても、良く出来たりそうでなかったりする。天才たちでも 同様。いつもホームランではない。毎回ヒットでもない。ときには連続ヒットもあるだろうが、結局は「打率」の問題になる。打率が悪いホームランバッターもいるが・・・
野球選手と違いアーティストはすべてが自由である。打率を考えて仕事をしてもいいし、しなくともいい。
石川進造氏の仕事ぶりをみると、個展ごとに「打率」があがっている。今展でも秀作が増えたし、それ以外の作の「問題点・欠点」に気がついている。よく理解もしている。そこからからは「秀作」は近距離だ。すでにNo.302のよう に「傑作」に近いものも出来ているのだから!
次の個展「桜のたび(3)」にむけて。ダッシュがはじまる。
ときどき筆者にメールや電話で連絡がある。仕上がった作品のA4コピーも、やや頻繁に送られてくるようになる。出来のいいものが増えだす。やはり、そうした原画を実際に視たくなる。
群馬在住の筆者は、東京の石川氏になかなか会いづらかったが、都合のいいチャンスがきた。彼も筆者も東京の同じ病院にかかっている。筆者の定期検診のとき、原画の幾つかを持って病院にやってきた。
「この絵はいい!」「これはちょっと?」「この部分はもっと描き込んだほうが?・・・」などと感想を言う。
「これは、《こうした思い》で描いたんで、自分では巧くまとめられたと思うが、どうかね!?」と彼。
「構図も色もバランスよくまとまっている。何を表現したのか、よくわかるーーつまり「主題」がはっきりしてる。あとは観る側の問題だね・・・」
もう一度 原画を診るチャンスがやってきた。展覧会まで、残すはあと二ヶ月。
某所での筆者の個展「SOTARO 絵画・陶芸作品展」のときだった。当日終了まぎわの夜、「これから行くよ!」
この何回目かの個展は、筆者にとっては最も大がかりのものだった。作品数や、サイズも大きな作品をならべていた。
彼は ざっと一巡りして「よくやったね!」と一言。作品については「ノーコメント」。もともと筆者の絵画(抽象画っぽい)については「わからないイッテンバリ!」で終止していたから、「やっぱり!?」・・・
このまま持参の原画を次々に見せる。ほとんど合格点ばかり。前回視たときより 一段も二段もあがっている。こちらも言う事なし!
「この絵は、持ってくるのを躊躇したんだけれど・・どうかね?・・個展に出すかどうか迷ってるが・・?」
「どうして!どうして!・・ 今までにない新しい構図だ! 作としては完成しているとは言えないが、新規な方向への萌芽といえるね! 次なる「桜の世界?」に歩み始める引金になる絵だ! 不気味さもいくらかあるしね・・個展には是非だしたほうがいいよ!」(作品については後述)
ホームランがでた!! No. 322 しかも最大の大作(760×540mm) 「傑作」である。
No.322 構図が素晴らしい! 左下から右上に「斜め仰角」に桜の巨木を描く。この「斜め仰角」の構図は彼も初めてだった。 かなり「危険」を伴う。画面をまとめきれない怖れがあるからだ。勇気!! 敢えてそれをやったことに「脱帽!」(優秀な写真家ならやるだろうが)。
根元も梢も枝先も切る。巨木を真っ正面に見据える。画面の五、六割の面積は幹・枝で占められる。
克明に描く老古木の苔むす幹、左右に振り上げる枝の桜花。「まだ生きてるぞ!」といわんばかり・・・ 此処に「生命の有り様」の表現がある。そこに主題があった、と筆者は視る。
遠景の緑の丘はボカして、幹の苔とちょっと区別ができないほど。その上の空の処理はあっさり・・丘も空も風景として描かれたものではない。この巨木を引き立たせるためのバックである。よく観察すれば、それが実の風景であることはわかるにしても・・・こうした部分を克明に描かなかったところに、創作技術の「長足の進歩」があり、この傑作につながったのである。
この作はペンと鉛筆の併用。「ペンで描く桜の花びらの硬さから,鉛筆による柔らかさに変わることが出来た」という。「ここまでがタイヘンだった!」とも。
石川進造氏の画業の「ピーク!」をしめす大ホームランである。
この絵に、敢えて敢えて! 問題点を指摘するとーー
「絵画」としてほとんど完璧」だが、わたくしたち「日本人が想い描く《桜》のイメージ」と、少々のずれがある。
満開の桜の「みごろ」を描いたのではなく、「いのち」を描いたのだから、やむを得ぬ問題なのだが・・・
そこで一案! No.324 No.325を左右に配するのだ。仏像・仏画の「三尊形式」がヒント!
「釈迦三尊像」は、釈迦如来を「中尊」とし、左右両脇に普賢菩薩と文殊菩薩を侍らせる。この二菩薩を「脇侍」という。
「阿弥陀三尊像」は、阿弥陀如来が中尊、観音菩薩と勢至菩薩が脇侍となる。
大ホームラン No.322を「中尊」とし、秀作「満開の図」No.324 No.325を左右の「脇侍」とする。「桜三尊」の完成である!!
これは単なる「桜三部作」ではない。誰しもが理解しうる「仏教」と「桜」という日本文化の二重かさねの表現なのだ!!
「三尊形式」によって、No.322は一個の「傑作」から「日本的名画」の道をあゆむことになる。
このアイディアを石川氏につたえた。一壁に「桜三尊」だけを展示、ほかの作品は別の壁にした方が、「傑作—名画」がより引き立つ と。実際の展覧会ては、ギャラリーの考えでNo.322 一点だけを正面ウインドに、他は別々に展示された。
将来「自選展」や「回顧展」そのたの企画展などが、おそらく開かれるだろう。そのときは是非「桜三尊」で展示したいものだ。この三点は売れてすでに分散しているようだが、借りてでも「桜三尊」を実現してほしい! 三作が「一体」なのだから。
世界に誇れる「桜三尊」の「S H I N Z O」
本展では秀作・佳作が「めじろ押し」— すごい「打率」である。
秀作——先の「脇侍」2点をいれて計7点 No.310 311 314 323 324 325 330.
佳作——6点 No. 315 319 321 326 327 335
これら多量の秀作・佳作すべての、解説・論評はできないか、その主なものを採りあげよう。
No.310 No.311 両図とも「しだれ桜」。前者は「滝の中の大木?」 後者は「滝の真ん前の桜?」——しだれ桜の花花花が、まるで滝川の水しぶきが勢いよく流れているように、見えませんか?
作者は、そんなことは、まったく考えずに、「しだれ桜」そのものを「彼の眼」で描いたのだろう!?
だが、「滝の桜」のようだと視るのは、見る側の勝手。見方の「デフォルメ」なのだから・・・
元來、しだれ桜や柳は 日本では幽霊とむすびつく。庶民階級の「お花見」は、江戸中期以降の流行りで、「どんちゃん騒ぎ」などは ずっとあとのことだった。
古くは、かの西行法師の「ねがはくは 花の下にて 春死なむ・・・」。むしろ桜は「死」につながると考えらていた。「墓地」に多くの桜が植えられていた。いまも東京の墓地に桜が多いのは、そのなごりである。
梶井基次郎「桜の樹の下には屍体が埋っている・・・」は、やや例外だが。
しかし、この「滝桜?」は、そうした「死」とむすびつくような陰湿な描写ではない。ひたすらに花花花の「しだれっぷり」を描く。画面全体がちょっと飛び出してくるような迫力があり、「凄み」の一つの表現を見せる。おもしろい! ペン描き。
No.314( 316ダブリ) とぐろ巻く蛇がとぐろを解きつつ地面を這う? もちろん桜の枝。満開の桜。やや奇抜にみえる構図だが、これが実際なのか? 自然にこうゆう構図になったのか? 一つの桜の前に立ったとき、自然に「スッと」構図が決まるまでの、長い修練をこの絵に感じた。よくまとめあげている。
この作は,ペンをドンドン細くして、0.01までにしたが、花びらが柔らかくならなかった、と本人のこだわり!・・・でも,ペン線の硬さ(嫌味?)はほとんど感じられず、細ペンゆえの僅かな硬さが「凄み」に効果的にはたらいている。苦労した甲斐がありましたね!
No. 323 堂々たる構図。桜花のアッブも堂々と真っ正面。気分よくすっきりした堂々さ。
佳作の絵にもふれよう。
No. 315 やや毛色のことなる作品。(展覧会ては未発表)
横に伸びる枝、「たわわに咲く」花の柔らかい重さ! その向こうの空のボカし,空間処理がいい。このバックで、花のアップがどれほど引き立つものか。
これは鉛筆描き。ちょっと手にとりたくなるような花の柔らかさ! いいねえ!
No.321 「ひこばえ」から伸びた小枝の桜のアップ。桜の樹のおもしろさの一つはひこばえ。大木の根っ子や大幹や枝から、直に花がさく。そのひこばえから小枝が育って大枝になるーーはずなのだが、成長途中で折れてしまうが多い。
この作は、あっさり描いているようで、なかなかの「くせ者」。幹の一部だけを見せ(けっこうな大木であることを感じさせ) 小枝の桜を堂々と主役に据える。小品ながら出来よく佳作とした。(No.320 はひこばえの植物図鑑を見てるようで落とした)
No.328 たがいちがいに絡まる小枝の真ん中を,やや大きく広げ、そこから遠くの風景を覗いた構図。花もつぼみも柔らかく描写。メガネのようで楽しい絵である。
No.332 古い作品の習作。大胆な黒と白。この抽象度を高めれば、いい「アブストラクトアート」になる。
No.330 石川氏の作品としては、著しく異質な作品である。例の、原画を見せにきたとき、出品するかどうか迷った作品(前述)
大胆といえば、大胆すぎる構図。太い幹を、思い切り左によせ(人間のボティのようだ)、上から中枝一本を横に「にゅぅーと」描く。一見、非常にバランスを欠く構図てある。構図的にはそうであるのだが、ところが・・である。バックの桜の花を、ほぼ画面いっぱいに「充填」することで、奇妙なバランスを保つ。遠景の空のボカしもいい。一種不思議な絵だ!
いずれ来るかもしれない彼の新基軸の引金になるだろう。「桜の新世界へ」!?・・・
最後に「傑作に成りそこなった作品?」を詳解しよう。
その前に、展覧会で実際に原画作品を観ることと、こうしてパソコンモニターで画像を見ることの、印象のちがいなどについて述べておこう。
印象の違いはかなり大きい。
第一に、原画の大きさが、モニター画面では判らない。
第二に、色彩や線の微妙な調子が見えにくい。
しかし、それらは音楽でいえばライブとCD,オペラとDVDのちがいと同じようなものてある(優れた印刷の画集でも同じことが言えるが)。いながらにして、すきなときにすきなだけ、自由に「鑑賞!?」できるのだから・・・これを良しとせねばなるまい!?
「展覧会」に行く楽しさ ー 作者に逢えるかもしれないなど ー はべつにして、展覧会で原画作品を見たとしても、限られた時間で、しみじみ何度もくりかえして、作品を見続けることなど、あまり出来ないものだ。人がいっぱいることもあるし、そのように「真剣」に観ている人は、極々かぎられる。
筆者についていえば、七回の全個展を見たうえで、この評論をかくために、石川進造氏の全作品330点余を一挙に見た。くりかえし・・・
そして、彼の画業の進展ぶりや、「写真的構図」がかなり多いことを再確認できた。個展ではやや不明瞭なところも、くり返し見直すことで、いろいろ解ったこともある。パソコンのおがげといえる。
「写真的構図」について、少々話しておきたい。
わたしたちー石川氏と筆者は、以前(個展4~5のころか?) 、「絵のいろは」について何回か確認しあっていた。
1. モティーフ (対象) は何か
2. テーマ (題) は何か
3. メィーンテーマ (主題) は何か
4. サブテーマ (副主題) があるか
5. タイトル (題名) 普通1~3から選ぶが、別のこともある
この内,最も重要なのは、いうまでもなく「メィーンテーマ」である。この「メィーンテーマ・主題」の把握こそが、作品の出来不出来を決定する! 過言ではない。写真の場合も全く同様である。
しかし、そこから「作画」段階に入ると、絵画と写真のやりかたは、まったく違ってくる。ただし構図の最初のとっかかり — 絵画では画面枠四方、写真の「フレーミング」はいずれも同じだが。
カメラの眼・レンズは「何でも」写す。人間の眼は「見たい」ものだけを「見える」ように出来ている。実際には網膜に写ったものを「脳」のどこかで、「見たい意識」のコントロールが行われているのだろう。
それが「主題」の把握につながり、絵画の場合は、その「主題」を描いて行けばいいのである。主題以外の不必要なものは「描かなければいい」のだ。(しかも人の眼はズームレンズ機能? ワイドからかなりの望遠レンズまで使って「もの」を見る。メィーンテーマ以外にサブテーマなども、ズームで選んで、構図を豊かにできる)。
しかし写真は,「主題」の把握がてきても、「何でも写す」カメラのレンズが作画の「じゃま」をする。作者の肉眼のようにはいかない。「主題」だけを写そうにも、不必要なものまでも、きちんとレンズが写してしまう。この「不要」なものを、いかに《写さない!!》かが、写真作画のかなり大きなポイントなのである。
レンズを交換し、もう一度「フレーミング」をやり直し、遠景だろうと近景だろうと、「主題」以外を切り捨て(捨象して)、「主題」そのものを浮かび上がらせる。そこに「絵」とは違った「マイナス」の技法・技術が必要なのだ。
主題を撮り切れれば、絵画と同じあつかいになる。
絵でも写真でも主題がはっきりしない作品は多々ある。たいていは、主題の把握が不充分な作品だが、ときに「上作」にもかかわらず、「主題」が見つけにくい作品もある。作者の巧妙さか — サブテーマを一つ二つ ときには三つも描いて、主題をわざと「ボカ」しているのだ。それを探しだすのも 絵画評論の楽しさではあるけれど・・・。
さていよいよ「傑作に成りそこなった!?」作品にうつろう。
No.329 (第7回個展DM) は、大ホームランNo.322と、あまり遠くない時期に描かれてものだろうが、No.322の完璧さを考えると、意外な感じを禁じえない。他の作でも完璧にちかいものが多々あるのに・・・?
絵の上下がバラバラ。視点が二つ、主題も二つである。むりして視れば「山里の畑に一本の満開の桜が立っており(下向きの視線)、それを上向きの視線で上にずっと見て行くと、枝からこぼれんばかりの、さらに満開の桜が描かれている」と見られる。
「上の主題」に下は要らないのだ! この上半分が、そのまま「完璧な傑作」なのだ! これぞ!「満開の桜」!!
満開の花に埋もれた四方にのびる枝——桜樹の特性の自由奔放な技の延び方が、それなりのまとまりを見せ、それを克明に描くことで、満開の「花の重み」と見事につりあう。そして、なによりも強調したいことは、これが「何何の名木」だとか「どこどこの桜」などという代名詞が不要であることだ。
ただ「美しい桜」を「美しいところ」のみを描いたのだ。花も枝も(それしかないのだが)過不足なく「ぴったり」描かれ、まさに「桜色一色」。実に単純明快な桜の美。いわゆる「シンプル」そのもの——全作品330点中もっともシンプルな絵である。シンプルゆえの迫力満点!!
所在地不詳。「名無しの桜」。どこにも在るかもしれぬ!? いや! きっとある!
「あるところに こんなきれいな さくらがさいていました・・・」
日本中いたるところに、日本以外にも、こうした情況の「満開桜」が多々あるだろう。いわば「ありふれた桜」なのだ。それを見事に絵画化し「傑作」にしたのは、石川進造であった。
ただし上半分のことではあるが・・・下半分も山里の桜風景として佳作である。
想像するに、「自称現場主義」の彼は、この「山里の桜風景」に見蕩れ、ついつい自然にそのまま下から描き始めたのかもしれない。そして上を見上げた瞬間に「はっと!」して、上の「傑作部分」になったのかな??
このことについて、展覧会前に石川氏になんども話した。このまま切り離せば、上が「傑作」下は「佳作」と・・・
彼も充分に理解。いずれ上半分を描き直すとキッパリ言う。展覧会ではそのまま出していた。名残り惜しかったのか?
切り離して小品になっても「傑作」であることに変わりはないが、もし描き直して、この感じを描ききれば、大ホームランNo.322と同格になる。甲乙つけ難いかもしれぬ。そして対象的な二つの「桜の名画」が誕生する! 期待!!
(作品の解説・評論はここで終わる。なお、作品334までが、この評論の対象である。)